ざっくり簡単解説!森忠徳とは?
森忠徳(もり ただのり)は、江戸時代後期の大名で、播磨国赤穂藩の第10代藩主を務めました。文化15年(1818年)に第9代藩主・森忠敬の三男として生まれ、幼名を詮道丸としました。文政10年(1827年)、兄の森忠貫が早世したため家督を継ぎました。若年だった忠徳の藩政は、家老の森可真が主導し、財政改革に取り組みましたが、天保の大飢饉の影響で困難を極めました。
藩財政の再建を試みる中、家老の入れ替わりと政策の失敗が続き、藩の経済は困難な状況に直面しました。忠徳は病弱で、長男の森忠弘が藩政を補佐しましたが、改革はうまく進まず、忠弘の死後も混乱が続きました。最終的に、文久2年(1862年)に次男の森忠典に家督を譲って隠居し、明治14年(1881年)に64歳で没しました。墓所は東京都港区の瑠璃光寺にあります。
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