1536年-1584年(満48歳没)
池田恒興(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての織田家重臣で、織田信長の乳兄弟として信長の幼少期から側近として仕えました。1536年に尾張国で生まれ、信長の命を受け、各地で軍功を挙げていきました。特に木津川口の戦いなどでは、信長に重用され、織田軍の重要な戦力として活躍しました。 信長が本能寺の変で討たれると、恒興は清洲会議で信長の孫・三法師を後継者に推し、羽柴秀吉の勢力を支持します。その後、恒興は秀吉に従って1583年の賤ヶ岳の戦いで織田信孝に勝利し、功績を称えられて摂津国の要地を与えられ、秀吉陣営内でさらに影響力を増しました。 1584年の小牧・長久手の戦いでは、秀吉方として徳川家康と対峙します。戦闘中、恒興は三河への進軍を進言し、徳川軍の背後を突こうとしましたが、家康の反撃に遭い、長久手で激戦の末に討ち死にしました。恒興の戦死と共に、息子の池田元助も戦場で命を落とし、その勇猛な最期は後世に語り継がれています。恒興の死後、家督は次男の池田輝政が継承し、池田家は江戸時代にかけて大名としての地位を確立しました。ざっくり簡単解説!桶狭間の戦いとは?
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、1560年に尾張国(現在の愛知県)で行われた戦いで、戦国時代を代表する合戦の一つです。この戦いで、織田信長が大軍を率いる今川義元を奇襲し、討ち取ったことで知られています。
今川義元は、駿河、遠江、三河の三国を支配する有力な戦国大名であり、約25,000の兵を率いて尾張へ侵攻し、京への上洛を目指していました。対して、信長の軍勢はわずか3,000ほどしかおらず、圧倒的に不利な状況でした。しかし、信長は桶狭間という狭い谷間で今川軍を奇襲し、義元を討ち取ることに成功しました。
この勝利により、信長は一躍有名になり、今川家の勢力は急速に衰退しました。桶狭間の戦いは、織田信長の天下統一への第一歩となった歴史的な転換点であり、戦国時代を象徴する重要な合戦とされています。
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