1728年-1766年(満37歳没)
徳川宗翰(とくがわ むねもと)は、江戸時代中期の大名で、常陸国水戸藩の第5代藩主として知られています。1728年、先代藩主徳川宗堯の次男として生まれ、幼名を鶴千代といいました。1730年、父の早世により数え年3歳で家督を継ぎましたが、幼少のため、将軍徳川吉宗から家老たちに補佐が命じられました。 成人後、宗翰は藩政改革に取り組み、財政再建を目指しました。しかし、度重なる改革の挫折や、1764年の水戸城全焼などの災難により、晩年は意欲を失い、酒や遊興にふけるようになったと伝えられています。1766年、37歳で死去し、長男の徳川治保が家督を継ぎました。宗翰の治世は困難を伴いましたが、藩の存続と発展に尽力した人物として評価されています。ざっくり簡単解説!松平忠弘とは?
松平忠弘(まつだいらただひろ)(1631年~1700年)は、江戸時代前期の大名で、松平忠明の後を継ぎ、様々な藩への転封を経験しました。彼は最初に播磨国姫路藩を治め、その後、出羽国山形藩、下野国宇都宮藩、そして陸奥国白河藩へと転封されました。忠弘は各地で藩政を整備し、特に宇都宮藩では新田開発のための検地を実施するなど、地域の発展に尽力しました。
白河藩では、家臣同士の対立が「白河騒動」として表面化し、幕府の仲裁を受け、家臣の一部が処罰される事態に発展しました。忠弘はこの騒動の責任を重く受け止めて隠居を決断し、家督を孫の斎宮に譲りました。隠居後も「刑部大輔」として家中に影響を残しつつ、1700年に70歳で亡くなりました。忠弘の生涯は、藩の統治と家中の安定を追求しながらも、家督相続や家臣間の対立に悩まされた象徴的なものです。
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