1543年-1616年(満73歳没)
徳川家康(とくがわ いえやす)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍し、日本の歴史を大きく変えた人物で、江戸幕府を創設した初代将軍です。1543年、松平広忠の嫡男として三河国(現在の愛知県)岡崎で生まれ、幼少期に駿河国の今川義元の人質として過ごしました。義元の死後、家康は独立し、織田信長と同盟を結び、戦国大名としての地位を固めていきました。 家康は長篠の戦いや三方ヶ原の戦いなど、多くの戦闘に参加し、領土を拡大していきました。信長の死後、家康は豊臣秀吉と一時的に対立しましたが、小牧・長久手の戦い後には和睦し、秀吉に臣従します。秀吉の死後、家康は政権の実権を握り、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成を中心とする西軍を破って、天下を手中に収めました。 1603年に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。家康は幕府の体制を整備し、強固な政治基盤を築きました。1615年には大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を確立させました。家康は晩年に自らの経験を『徳川家康遺訓』としてまとめ、後世の将軍たちへの教訓としました。1616年に駿府城で没し、日光東照宮に祀られ、「東照大権現」として神格化されました。 家康の政治手腕と軍事的勝利は、260年余り続く平和な江戸時代の礎を築き、日本の歴史において「天下人」として不動の地位を確立しました。ざっくり簡単解説!最上家親とは?
最上家親(もがみいえちか)(1582年~1617年)は、戦国大名最上義光の次男で、出羽山形藩の第2代藩主として最上家の当主となりました。父・義光の指示で幼少から徳川家康に仕え、徳川秀忠にも家臣として従います。1600年の関ヶ原の戦いでは家康方に加担し、その後、父の死に伴い家督を継ぎました。
大坂の陣では徳川側に立ち、豊臣方に親しい弟の清水義親を粛清するなどして幕府への忠誠を示しましたが、家親は1617年、江戸で急死しました。その死因には毒殺説があり、これが藩内対立「最上騒動」を引き起こすきっかけとなります。息子の義俊が家督を継ぐも、家中で内紛が激化し、最上家は1622年に改易されることとなりました。
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