1694年([years_ago]1694[/years_ago])
高田馬場の決闘(たかだのばばのけっとう)は、江戸時代中期の元禄7年2月11日(1694年3月6日)、江戸郊外の高田馬場(現在の東京都新宿区西早稲田)で発生した決闘事件です。伊予国西条藩の藩士である菅野六郎左衛門と村上庄左衛門の間で、些細な口論が発端となり、決闘に至りました。菅野は助太刀を求め、同門の剣客であった中山安兵衛(後の堀部安兵衛)に協力を依頼しました。決闘当日、安兵衛は高田馬場に駆けつけ、菅野と共に戦い、村上側の数名を討ち取りました。この活躍により、安兵衛の名は江戸中に広まり、後に赤穂浪士の一員としても知られるようになりました。この事件は、武士の名誉や義理を重んじる江戸時代の価値観を象徴する出来事として、後世に語り継がれています。ざっくり簡単解説!徳川家継とは?
徳川家継(とくがわ いえつぐ)は、江戸幕府第7代将軍で、1709年に第6代将軍徳川家宣の四男として生まれました。幼名は鍋松。1713年、父・家宣の死去に伴い、わずか4歳で将軍職を継承しました。
家継の治世は、幼少であったため、側用人の間部詮房や儒学者の新井白石が幕政を補佐し、正徳の治と呼ばれる政治改革を推進しました。具体的には、貨幣の質を改善する正徳金銀の発行や、貿易の制限を行う海舶互市新例の制定などが行われました。
また、家継は学問や文化の振興にも関心を示し、儒教的な徳治主義を重視しました。しかし、在職わずか3年余りの1716年、家継は8歳で病没しました。短い治世ながらも、家継の時代に行われた政策は、後の幕府運営に影響を与えました。
- 最終更新日: