1118年-1181年(満63歳没)
平清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将で、武家として初めて太政大臣に上り詰めた人物です。父である平忠盛の跡を継ぎ、保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)で武功を立てて勢力を拡大しました。清盛は娘の徳子を高倉天皇の中宮に迎え、皇室との結びつきを強め、外戚としての地位を確立しました。また、日宋貿易を積極的に推進し、経済的基盤を確立して平氏政権の安定を図りました。しかし、その権力集中は多くの貴族や寺社の反発を招き、1179年の治承三年の政変で後白河法皇を幽閉するなど、独裁的な政治を行いました。清盛は強大な権力を保持しましたが、1181年に病で没し、その後、平氏は源氏との戦いに敗れて壇ノ浦の戦い(1185年)で滅亡します。清盛の生涯は、武士が政治の中心に立つ時代の到来を象徴しており、日本の歴史に大きな影響を与えました。ざっくり簡単解説!後白河天皇とは?
後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、日本の第77代天皇であり、1155年に近衛天皇の崩御を受けて即位しました。彼の治世は1155年から1158年までの短いものでしたが、その後、長期間にわたる院政を行い、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本政治に大きな影響を与えました。
後白河天皇の治世は、国内の権力闘争が激化する中で起こった保元の乱(1156年)が象徴的です。保元の乱では、後白河天皇が勝利し、崇徳上皇は敗北し流罪となりました。これにより、後白河天皇は権力を強固にし、退位後も政治の実権を握り続ける院政を開始しました。
後白河上皇は、その後も平治の乱(1159年)や源平合戦(1180年~1185年)を通じて、源氏と平氏の間の抗争に深く関与し、天皇や上皇として長く影響力を持ち続けました。彼の院政は武士の台頭を背景に、天皇や貴族と武士の力関係が大きく変わる時期となりました。
後白河天皇の治世と院政は、権力争いが激化し、武士政権への移行が進んだ日本の歴史における転換点とされています。
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