1701年-1732年
久保田新田藩(くぼたしんでんはん)は、江戸時代中期に出羽国(現在の秋田県)に存在した外様藩で、藩庁は久保田城に置かれました。1701年、久保田藩第3代藩主佐竹義処が甥の佐竹義都に新田1万石を分与し、久保田新田藩が立藩されました。義都は江戸定府の大名として、江戸の深川高橋に上屋敷を構えました。1732年、義都の子である佐竹義堅が宗家である久保田藩の養子となり、久保田新田藩は廃藩となりました。この藩は、特定の領地を持たず、蔵米支給の形式であったため、実質的には久保田藩の支藩として機能していました。ざっくり簡単解説!富山藩とは?
富山藩は、江戸時代に越中国(現在の富山県)に存在した藩で、元和16年(1639年)に加賀藩の分藩として設立されました。藩主は前田家で、初代藩主は前田利次です。藩の石高は10万石で、藩庁は富山城に置かれました。
富山藩は、初期の財政が厳しく、特に富山城の建設や拡張が遅れましたが、藩内では薬業や漁業、製紙業が盛んに行われました。特に、富山は「越中売薬」として全国的に知られ、富山藩の財政を支える重要な産業となりました。これにより、藩は徐々に経済基盤を確立しました。
藩政は、歴代藩主が財政難に苦しむ一方で、地域の文化や教育の振興にも取り組みました。藩校として安政2年(1773年)に設立された広徳館は、藩士の教育に重要な役割を果たしました。また、寺子屋では算術が重視され、売薬に関する技術や知識が広められました。
幕末には新政府側に立ち、戊辰戦争では加賀藩とともに出兵しました。明治維新により富山藩は廃藩置県により消滅し、その後は新潟県に統合されましたが、藩の文化や伝統は現在も富山県に息づいています。
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