1623年-1624年
仁賀保藩(にかほはん)は、江戸時代初期に出羽国由利郡塩越(現在の秋田県にかほ市象潟町字二ノ丸)を中心に存在した外様藩で、藩庁は塩越城に置かれました。藩主は仁賀保氏で、初代藩主の仁賀保挙誠は、関ヶ原の戦いで東軍に与し、戦後に5,000石を安堵されました。その後、大坂の陣での功績により、1623年に旧領である仁賀保に1万石を与えられ、仁賀保藩を立藩しました。しかし、挙誠は翌年の1624年に死去し、所領は三人の息子に分割相続され、それぞれが旗本となったため、仁賀保藩はわずか1年で廃藩となりました。その後、仁賀保氏は旗本として存続し、明治維新を迎えました。ざっくり簡単解説!天童藩とは?
1830年-1871年(廃藩置県まで)
天童藩(てんどうはん)は、江戸時代後期に出羽国村山郡天童(現在の山形県天童市)を中心に存在した外様藩で、藩庁は天童陣屋に置かれました。藩主は織田信長の次男・織田信雄の子孫である織田氏が務めました。1767年、織田信邦が明和事件に連座し、上野国小幡藩から出羽国高畠藩(現在の山形県高畠町)に転封されました。その後、1830年に藩庁を高畠から天童に移し、天童藩が成立しました。藩の石高は2万石で、財政難に悩まされていました。幕末には、家臣の内職として将棋の駒作りを奨励し、現在の天童市が「将棋の町」として知られる基礎を築きました。戊辰戦争では、当初新政府軍に協力しましたが、庄内藩の攻撃を受けて城下町が焼き討ちに遭い、その後奥羽越列藩同盟に加盟しました。最終的に新政府軍に降伏し、1871年の廃藩置県により天童藩は廃止され、その領地は山形県に編入されました。
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