ざっくり簡単解説!堀部武庸とは?
堀部武庸(ほりべ たけつね)は、江戸時代前期の武士であり、赤穂浪士四十七士の一人として知られています。通称は安兵衛(やすべえ)で、剣術の達人としても名高い人物です。
寛文10年(1670年)、越後国新発田藩(現在の新潟県新発田市)にて、藩士・中山弥次右衛門の長男として生まれました。幼少期に両親を亡くし、姉夫婦に育てられました。元禄元年(1688年)、19歳で江戸に出て、堀内道場で剣術を学び、免許皆伝を受けました。元禄7年(1694年)には、高田馬場の決闘で助太刀し、相手方3人を斬り倒す活躍を見せ、「高田馬場の決闘」として江戸中にその名を轟かせました。
この評判を聞いた赤穂藩士・堀部金丸は、武庸を婿養子に迎え、娘のきちと結婚させました。元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易されました。武庸は仇討ちを強く主張し、江戸急進派のリーダー格となりました。元禄15年(1702年)12月14日、赤穂浪士四十七士の一人として吉良邸討ち入りに参加し、奮戦しました。討ち入り後、武庸は伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷に預けられ、元禄16年(1703年)2月4日、34歳で切腹を命じられました。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺にあります。
武庸は剣術の達人であり、赤穂浪士の中でも特に人気が高い人物です。その生涯は多くの文学作品やドラマで取り上げられ、現在も多くの人々に知られています。
- 最終更新日: