1647年-1871年(廃藩置県まで)
出羽松山藩(でわまつやまはん)は、江戸時代に出羽国飽海郡松山(現在の山形県酒田市松山地区)を中心に存在した譜代藩で、藩庁は松山城に置かれました。初代藩主酒井忠恒は、庄内藩初代藩主酒井忠勝の三男で、1647年に庄内藩から2万石を分与され、松山藩を立藩しました。当初は陣屋を構えていましたが、三代藩主酒井忠休が若年寄に任じられ、5000石の加増と城主格を与えられたことから、1781年に松山城の築城を開始し、1788年に完成しました。幕末の戊辰戦争では、宗家である庄内藩と共に奥羽越列藩同盟に参加し、新政府軍と戦いましたが、最終的に降伏しました。1871年の廃藩置県により松山藩は廃止され、その領地は山形県に編入されました。ざっくり簡単解説!喜多見藩とは?
喜多見藩は、江戸時代に武蔵国多摩郡喜多見(現在の東京都世田谷区)に存在した藩です。藩庁は喜多見城(喜多見陣屋)に置かれ、藩主は喜多見重政が務めました。喜多見氏は元々、武蔵江戸氏の後裔であり、江戸氏の分家にあたります。
藩は1686年に設立され、初代藩主である重政の時代には石高が1万石から2万石に増加しました。しかし、元禄2年(1689年)に重政の一族が関与した刃傷事件により、藩は改易されて廃藩となりました。その後、喜多見の地は幕府直轄領となり、喜多見氏の家臣たちは浪人となるか、他の藩に仕官することとなりました。
現在、喜多見の地には喜多見氏の墓所である慶元寺があり、その周辺には歴代藩主や家臣たちの墓が存在します。このように、喜多見藩は東京23区内に存在した数少ない藩の一つとして、地域の歴史に名を刻んでいます。
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