ざっくり簡単解説!吉田兼貞とは?

吉田兼貞(よしだ かねさだ)は、江戸時代前期の武士であり、赤穂浪士四十七士の一人として知られています。通称は沢右衛門(さわえもん)です。延宝3年(1675年)、赤穂藩士・吉田兼亮(通称:忠左衛門)の三男として生まれました。幼名は千之丞、のちに文蔵と称し、最終的に沢右衛門と名乗りました。兄2人が早世したため、吉田家の嫡男となりました。

父と同様に赤穂藩に仕え、家督前の部屋住みであったが、分限帳の中には10両3人扶持の近習兼蔵奉行としているものもあります。元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易されました。兼貞は父とともに仇討ち計画に参加し、元禄15年(1702年)12月14日の吉良邸討ち入りでは表門隊に所属し、奮戦しました。

討ち入り後、長府藩毛利家に預けられ、元禄16年(1703年)2月4日、毛利家家臣・進藤為右衛門の介錯で切腹しました。享年29。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺にあり、法名は刃当掛剣信士です。

兼貞は赤穂浪士の中でも若手の一人であり、父とともに忠義を尽くした人物として知られています。その生涯は多くの文学作品やドラマで取り上げられ、現在も多くの人々に知られています。

江戸時代の関連記事