ざっくり簡単解説!吉田兼亮とは?
吉田兼亮(よしだ かねすけ)は、江戸時代前期の武士であり、赤穂浪士四十七士の一人として知られています。通称は忠左衛門(ちゅうざえもん)で、寛永17年(1640年)に常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)で、浅野家家臣・吉田之貫の長男として生まれました。母は水谷家家臣・貝賀新兵衛の娘で、弟に貝賀友信がいます。
浅野家が赤穂藩に移封された際、兼亮もこれに従い、赤穂藩に仕官しました。足軽頭や郡奉行を務め、200石を知行しました。また、甲州流軍学や槍術を学び、文武両道の士として知られていました。大石内蔵助からの信頼も厚く、復讐計画や軍令、覚書、口上書などの作成を任されていました。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易されました。兼亮は大石内蔵助とともに藩政の残務処理にあたり、その後、仇討ち計画に参加しました。元禄15年(1702年)12月14日、吉良邸討ち入りでは裏門隊の副隊長として参加し、吉良上野介を発見する際には同志を叱咤して探させるなど、重要な役割を果たしました。討ち入り後、幕府に自訴する大役も務めました。
その後、熊本藩主・細川綱利の下屋敷にお預けとなり、元禄16年(1703年)2月4日、64歳で切腹を命じられました。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺にあります。戒名は刃仲光剣信士。
兼亮は大柄で容貌魁偉、文武両道の士として知られ、赤穂浪士の中でも特に重要な役割を果たした人物です。その生涯は多くの文学作品やドラマで取り上げられ、現在も多くの人々に知られています。
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