ざっくり簡単解説!保科正之とは?
保科正之(ほしなまさゆき)(1611年~1673年)は、江戸時代初期の名君として知られ、会津藩の藩祖として藩政と幕政に多大な影響を与えました。徳川秀忠の子で、3代将軍徳川家光の異母弟にあたり、正之は幼少期に保科正光の養子となり、後に信濃国高遠藩や出羽国山形藩の藩主を経て、陸奥国会津藩を治めるようになります。
正之は、幕政でも兄・家光の信頼を受け、4代将軍徳川家綱の後見役を務めました。この際、末期養子の制度緩和や殉死の禁止を進め、江戸の町では玉川上水の整備を建議するなど、民衆の生活向上にも尽力。明暦の大火の際には江戸城天守の再建を断念し、復興費を庶民の救済に充てるなど実務的な判断が評価されています。また、会津藩では飢饉対策として備蓄米制度の「社倉」を設け、藩の安定を図りました。
彼の遺した「会津家訓十五箇条」は、幕末まで会津藩の忠義精神を支え、特に徳川家への忠誠を貫く姿勢を示しています。正之の政策や理念は会津藩とその民に深く影響を与え、彼の死後も「徳川幕府の藩屏」としての役割を担い続けました。
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