1563年-1631年(満68歳没)
加藤嘉明(かとう よしあき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、大名です。三河国(現在の愛知県)で生まれ、初めは豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦い(1583年)では「賤ヶ岳の七本槍」の一人として名を馳せました。その後、九州征伐や小田原征伐、文禄・慶長の役などで水軍を率いて活躍し、特に海戦での功績が評価されました。関ヶ原の戦い(1600年)では東軍に属し、戦後、伊予松山20万石を与えられ、松山城の築城を開始しました。1627年には会津若松城主として40万石に加増され、東北地方の治安維持に努めました。嘉明は治水事業や城下町の整備にも力を入れ、領民からの信頼も厚かったと伝えられています。1631年、江戸で病没し、68歳の生涯を閉じました。ざっくり簡単解説!九鬼嘉隆とは?
九鬼嘉隆(くき よしたか|1542年-1600年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した水軍大将で、志摩国(現在の三重県)を拠点に九鬼水軍を率いた「海賊大名」として知られます。1542年に生まれ、織田信長に仕え、鉄甲船(装甲船)を建造して敵の毛利水軍に対抗しました。特に天正6年(1578年)の木津川口の戦いでこの鉄甲船を使用し、毛利軍を打ち破ったことで名を高めました。
豊臣秀吉の家臣としても信頼され、九州平定や小田原征伐、さらには文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも参加しました。嘉隆は秀吉の死後に隠居しましたが、関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、東軍に与した嫡男の九鬼守隆と対立することになりました。戦いに敗れると、嘉隆は鳥羽城を退き、答志島の洞仙庵にて切腹して果てました。
- 最終更新日: