614年-669年(満55歳没)
藤原鎌足(ふじわら の かまたり)は、飛鳥時代の政治家で、藤原氏の始祖です。元は中臣鎌足と名乗り、神事を司る中臣氏の出身でした。645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と共に蘇我入鹿を討ち、専横を極めた蘇我氏を倒しました。これにより「乙巳の変」が起こり、のちの大化の改新に繋がる変革が開始されました。鎌足は新しい政治体制の確立に尽力し、律令制度の基盤を築きました。669年、天智天皇から「藤原」の姓を賜り、内臣に任命されましたが、同年に病没しました。鎌足の子孫は藤原氏として権勢を強め、平安時代にかけて政治の中心に立つことになります。彼の業績は日本の歴史に深い影響を与え、藤原氏の繁栄の礎となりました。ざっくり簡単解説!乙巳の変とは?
645年(今から1380年前)
乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代の645年6月12日(皇極天皇4年6月12日)に発生した政変で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)(後の藤原鎌足)らが、当時権勢を振るっていた蘇我入鹿(そがのいるか)を飛鳥板蓋宮で暗殺し、蘇我氏宗家を滅ぼした事件です。この政変は、蘇我氏の専横に対する反発と、中央集権的な国家体制への転換を目指す動きが背景にありました。乙巳の変後、孝徳天皇が即位し、中大兄皇子は皇太子として実権を握り、翌年の646年には「改新の詔」を発布し、公地公民制の導入や地方行政の整備など、大化の改新と呼ばれる一連の改革を推進しました。これにより、日本は豪族中心の政治から天皇中心の中央集権的な国家体制へと移行し、律令国家の基盤が築かれました。乙巳の変は、日本史における重要な転換点であり、その後の政治・社会体制に大きな影響を与えました。
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