1644年-1702年(満59歳没)
有馬清純(ありま きよずみ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名で、日向延岡藩、越後糸魚川藩、そして越前丸岡藩の藩主を歴任しました。父は延岡藩主・有馬康純で、母は阿部忠秋の養女です。1679年に父の隠居に伴い延岡藩第3代藩主として家督を継ぎましたが、藩内での財政困難や支配に対する不満が高まり、1690年には領内で山陰・坪谷村一揆が勃発しました。この一揆により、清純の悪政が幕府から問題視され、1692年には延岡から越後糸魚川藩への移封処分を受け、無城大名に格下げされました。さらに1695年には越前丸岡藩への転封となり、丸岡藩の初代藩主となります。しかし、その後も藩の安定には至らず、清純の治世は藩内の混乱が続きました。1702年、59歳で死去し、跡を嫡男の有馬一準が継ぎました。彼の波乱に満ちた治世は、藩政における統治の難しさと、当時の政治的な困難さを象徴しています。ざっくり簡単解説!丸岡藩とは?
丸岡藩は、江戸時代に越前国(現在の福井県坂井市)に存在した藩で、初代藩主は本多成重です。丸岡藩は、慶長18年(1613年)に福井藩から独立し、石高は最初5万石でした。藩庁は丸岡城に置かれ、地元の経済や文化に大きな影響を与えました。
藩は、最初の藩主である本多成重が城下町の建設や治水工事に尽力し、丸岡藩の基盤を整えました。成重の後、藩は本多家から有馬家に移り、有馬清純が藩主となりました。有馬家は、幕末まで藩を統治し、さまざまな藩政改革を行いました。
藩政は、特に財政難や天候不順による困難に直面し、一揆が発生することもありましたが、有馬誉純などの有能な藩主による改革が行われました。藩校の設立や、農民の助け合いを促進する制度の導入など、地域社会の発展にも寄与しました。
丸岡藩は、明治4年(1871年)の廃藩置県により消滅し、その後は丸岡県となりました。丸岡城は現存する天守の一つとして、今も多くの観光客を惹きつける場所となっています。
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