645年([years_ago]645[/years_ago])
乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代の645年6月12日(皇極天皇4年6月12日)に発生した政変で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)(後の藤原鎌足)らが、当時権勢を振るっていた蘇我入鹿(そがのいるか)を飛鳥板蓋宮で暗殺し、蘇我氏宗家を滅ぼした事件です。この政変は、蘇我氏の専横に対する反発と、中央集権的な国家体制への転換を目指す動きが背景にありました。乙巳の変後、孝徳天皇が即位し、中大兄皇子は皇太子として実権を握り、翌年の646年には「改新の詔」を発布し、公地公民制の導入や地方行政の整備など、大化の改新と呼ばれる一連の改革を推進しました。これにより、日本は豪族中心の政治から天皇中心の中央集権的な国家体制へと移行し、律令国家の基盤が築かれました。乙巳の変は、日本史における重要な転換点であり、その後の政治・社会体制に大きな影響を与えました。ざっくり簡単解説!中臣鎌足とは?
中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、飛鳥時代の政治家で、後に藤原氏の祖となる人物です。彼は645年に起こった乙巳の変で、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに蘇我入鹿を打倒し、蘇我氏の専横を終わらせた功績で知られています。この事件を機に、大化の改新という日本の政治改革が進み、中央集権的な国家体制の礎を築きました。
鎌足は、天智天皇の信頼を受け、政治改革を支える重要な役割を果たしました。彼は内臣(うちつおみ)として天皇の側近となり、律令制度の整備や国家の統治機構の構築に貢献しました。
中臣鎌足は死の直前に藤原姓を賜り、これが後の藤原氏の始まりとなります。藤原氏はその後、日本の貴族政治において大きな影響力を持つ一族へと成長しました。
鎌足の業績は、大化の改新や日本の律令国家の基礎を築いたことにあります。
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