1613年([years_ago]1613[/years_ago])
最上騒動(もがみそうどう)は、江戸時代初期の1613年から1622年にかけて、出羽山形藩の最上家で発生したお家騒動です。初代藩主・最上義光(もがみ よしあき)の死後、家督を継いだ次男・家親(いえちか)とその子・家信(いえのぶ)の代に、一族や家臣団の間で深刻な対立が生じました。義光の長男・義康(よしかつ)は、父との不和から廃嫡され、次男の家親が家督を継ぎましたが、家親の急死後、幼少の家信が藩主となりました。これにより、義光の四男・山野辺義忠(やまのべ よしただ)を擁立しようとする派閥と、家信を支持する派閥との間で激しい内紛が起こりました。最終的に、幕府は元和8年(1622年)に最上家を改易し、山形藩は鳥居忠政(とりい ただまさ)が治めることとなりました。この騒動は、一族間の権力争いが藩全体を巻き込み、幕府の介入を招いた典型的なお家騒動として知られています。ざっくり簡単解説!下総山崎藩とは?
下総山崎藩(しもうさやまざきはん)は、現在の千葉県野田市山崎周辺に位置し、徳川家康の家臣岡部長盛(おかべながもり)が1590年に1万2000石で封じられて成立した藩です。長盛は藩の拠点として山崎村に堤台城を築き、領内整備や藩政の基盤を固めました。1591年には堤台城を居城とし、下総山崎藩としての統治を開始しました。
長盛は関ヶ原の戦いでは徳川軍の一員として戦い、後にその功績が評価され、1609年にはさらに領地を加増されて丹波国亀山藩に転封されました。このため、下総山崎藩はわずか19年で廃藩となり、短命ながらも家康の支配拡大に貢献しました。堤台城跡は現在も野田市に残っており、地域の歴史遺産として保存されています。
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