1613年([years_ago]1613[/years_ago])
最上騒動(もがみそうどう)は、江戸時代初期の1613年から1622年にかけて、出羽山形藩の最上家で発生したお家騒動です。初代藩主・最上義光(もがみ よしあき)の死後、家督を継いだ次男・家親(いえちか)とその子・家信(いえのぶ)の代に、一族や家臣団の間で深刻な対立が生じました。義光の長男・義康(よしかつ)は、父との不和から廃嫡され、次男の家親が家督を継ぎましたが、家親の急死後、幼少の家信が藩主となりました。これにより、義光の四男・山野辺義忠(やまのべ よしただ)を擁立しようとする派閥と、家信を支持する派閥との間で激しい内紛が起こりました。最終的に、幕府は元和8年(1622年)に最上家を改易し、山形藩は鳥居忠政(とりい ただまさ)が治めることとなりました。この騒動は、一族間の権力争いが藩全体を巻き込み、幕府の介入を招いた典型的なお家騒動として知られています。ざっくり簡単解説!三河中島藩とは?
三河中島藩(みかわなかじまはん)は、江戸時代に三河国(現在の愛知県岡崎市中島町)に存在した藩で、藩庁は中島陣屋に置かれていました。この藩は、寛永16年(1639年)に板倉重矩が1万石で立藩しました。重矩は後に老中や京都所司代などの重要な職に就き、最終的には5万石にまで加増されました。
藩の歴史は短命で、寛文12年(1672年)には重矩が下野烏山藩に移封されることが決定し、その結果三河中島藩は廃藩となりました。重矩の後は、彼の子・板倉重種が藩主を継ぎましたが、所領の大半は烏山藩に引き継がれ、三河国内の所領は大幅に減少しました。
藩政においては、重矩が有能な重臣であったことから、藩の基盤は安定していましたが、藩の廃藩後は板倉家が他の藩での活動を続けました。中島の地は、戦国期から板倉家と深い関わりを持つ歴史的な土地であり、その影響は今でも地域に残っています。
藩の家紋は「葵」で、これは板倉家に由来しています。三河中島藩の存在は、幕藩体制の中で重要な役割を果たし、地方政治や文化に影響を与えました。
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