1751年-1805年(満54歳没)
徳川治保(とくがわ はるもり)は、江戸時代中期の大名で、常陸国水戸藩の第6代藩主です。1751年に徳川宗翰の長男として生まれ、1766年に16歳で家督を継ぎました。藩財政の悪化が続く中、治保は藩政改革に積極的に取り組み、天明の大飢饉の際には農村復興や殖産興業に力を注ぎました。また、農民救済のための支援策も拡充し、社会安定を図りました。寛政2年(1790年)には初めて水戸に入国し、改革を本格化させ、藩内の安定を目指しました。 学問の振興にも尽力し、停滞していた『大日本史』の編纂を再開。さらに町人や農民からも学識ある人材を藩士に取り立てるなど、新たな人材登用も進めました。治保自身も文人として著書を残し、藩内の教育や文化の向上にも力を注いでいます。1805年、55歳で没し、財政や文化の基盤を整えた藩主として高く評価されています。ざっくり簡単解説!三日月藩とは?
三日月藩(みかづきはん)は、江戸時代に播磨国(現在の兵庫県佐用町)に存在した藩で、元禄10年(1697年)に設立されました。この藩の初代藩主は森長俊で、彼は美作国津山藩の分家にあたります。藩は当初、約1万5000石を領有し、藩庁は三日月陣屋に置かれました。
三日月藩は、森氏が代々藩主を務め、約174年間にわたり安定した統治が行われました。藩内では、藩校「明倫堂」が設立され、地域の教育や文化の振興に努めました。また、藩は治水や農業振興にも力を入れ、地域の発展に寄与しました。
幕末期には新政府に恭順し、明治4年(1871年)の廃藩置県によって藩は消滅しました。その後、三日月藩の名残は現在も地域に残り、三日月陣屋の遺構や文化財は観光名所として親しまれています。
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